(⑤のつづきです)
カレーまんは第1回下北沢カレー王座決定戦の日に、初めて下北沢に現れたのだが、カレーまんを2011年から現在までずっとやっているD-BLACK(ディーブラック)と初めて会ったのは2011年の9月頃だった。
当時はまだカレーまんではなく、ラッパーになろうと長野県から上京したばかりの若者だった。
私もディーブラックも通っていた下北沢のカフェバー、BUG HOUSE(バグハウス。
2012年に店名が変わりBacXusバックスとなる)で、私がいつものようにお酒を飲んでだらだらしていると、白い全身タイツを着たディーブラックがラップをうたいながら店内に入ってきた。
とても奇妙だったが面白かったので2011年10月に開催を予定していた第4回無職FES(10時から22時まで12時間の長時間イベント)の司会を依頼した。
初めて会った時のやりとりはとても印象的だったのでよく覚えている。
岩井「お前、面白いな。今度無職FESってイベントやるから司会やって」
ディーブラック「いいっすよ。で、司会って何すればいいんですか?」
何をすればいいか、できるかどうかわからないのに、いいですよ、と即答で言ってしまうノリがとても心地よかった。
10月15日の無職FESでは司会をしてもらいつつ、隙間時間に2人で一緒にコントのようなことをやった。
彼は当時、家電量販店のパソコン売り場で働いていたので、電気屋さんを舞台にしたコントで、私がボケて彼がツッコミをしてくれた。
イベントの司会としての評価も上々で、11月3日の第1回下北沢カレー王座決定戦のイベントの盛り上げ役も依頼した。
カレー王座決定戦の前日、彼は「岩井さん、明日の衣装なんですけど、これどうですかね」といってカレーまんのあの姿を披露してくれた。
王冠のような帽子に金色のタイツ。
シンプルだけど奇抜で面白かったので、イベント当日は会場内にずっといてもらうのはもったいないと思い、下北沢の町中をうろうろしてもらい、カレー王座決定戦のチラシ配りをお願いした。
イベントは12時~21時までだったので、昼間から夜までずっと街をうろうろしていたのだと思う。
背中かおなかにイベントのチラシを貼っていた。
この時はまだ拡声器を買っていないので、今のようにラップはしていなかったはずだ。
この時のまわりの反応がとてもよかったのでこのキャラクターを続けていくことになった。
最初は「カレーまん」という名前ではなく、カレーの王様とかカレーの妖精とか、設定があやふやだった。
カレーフェスをやる段階になって「カレーまん」という名称でいくことに決まった。
「まん」をひらがな表記にしたのは彼のこだわりだった。
普通は「マン」にして「カレーマン」とすることが多く、実際「カレーマン」という名前で活動している人は全国に何人かいる。
彼らとの差別化には成功したのだが、一方で中華まんの「カレーまん」と競合してしまい、ネットで「カレーまん」と検索しても中華まんばかり出てきて、彼のカレーまんが出てきにくいというデメリットがあった。
ただ、こういうのはやる本人がしっくりくることが大事だと思うので、ひらがなでよかったのだと思う。
西山さん、阿部さん、ディーブラックの3人との出会いはこんな感じだった。
私とディーブラックの出会いに関してはバグハウスという店があり、店長の森田さん(常連客からタモさんと呼ばれていた)というとても魅力的な店長がいたことが大きい。
私がバグハウスと出会ったきっかけはここで演劇の公演をさせてもらったことだった。
私は2011年にイベントの企画を始める前は演劇を真面目にしていて、下北沢でレンタル料が安かったからという理由でこのお店で演劇の公演をさせてもらったのだが、公演後もたまに飲みに行っていた。
その後、演劇をやめて就職するも、すぐにリストラされ、落ち込んで、することがないから毎晩この店で飲んだくれているのを見かねた森田さんが私を元気づけようと「岩井さん、また演劇でもなんでもいいからさ、うちの店使っていいから、なんか面白いことやんなよ」と言ってくれたことが、私が無職FESというイベントを始めるきっかけになった。
イベント会社で働いたこともない私が、いろいろなイベントを企画するようになったきっかけは、バグハウスというお店と、店長の森田さんからの応援だった。
一方、ディーブラックは、長野から上京して間もないころ、路上に置かれたバグハウスの看板に「長野出身の人、1杯無料」と書かれていたのを見てお店に入り、それから常連客となったらしい。
ディーブラックと出会っていなかったら、カレーまんは生まれてなかったし、カレーまんなしではカレーフェスもここまで盛り上がらなかったと思う。
森田さんは家庭の事情で店長を辞め、ディーブラックと私が初めて出会った頃は、常連客だったタカさん(常連客からはチャンたかと呼ばれていた)が店を引き継いでいて、11月のカレー王座決定戦はタカさんが店長になって初めてのイベントだった。
もし、タカさんが店を引き継いでくれていなかったらバグハウスは閉店、会場がないため、カレー王座決定戦は開催されなかった可能性がかなり高い。
森田さんと同様に、タカさんの功績も下北沢カレーフェスにとって、すごく大きい。お2人には改めて感謝したい。こうやって書いてみると、偶然の出来事がいい方向に繋がって、カレーフェスは始まったんだなと思う。
アイラブ下北沢の2人とのつながりは、おそらくしもブロ(2021年現在、しもブロは下北沢のお店等を紹介する情報サイトになっているが、2011年当時は下北沢ブロイラーSNSという名前で、登録者同士がコミュニケーションできるミクシィのようなウェブサイトだった)が定期的に主催していた下北沢界隈の人が集まる飲み会がきっかけだったのだと思う。
飲み会にてお互いのことはなんとなく知っていたが、カレー王座決定戦を始めるまでの私は、無職FESとかホームレスBARとか、大手企業のサラリーマンであるアイラブ下北沢の2人からすると、あまり関わり合いにならない方がいい人物に見えていた可能性がある。
ただ、黒田さんは無職FESのスポンサー(イベントに来場した無職の人にお酒を1杯ごちそうしてくれた)になってくれていたので、そこまで印象は悪くなかったかもしれない。
下北沢ブロイラーがつないでくれた私とアイラブ下北沢の縁があり、その後、事務所の提供をはじめ、黒田さんの様々なバックアップが下北沢カレーフェスティバルの成功につながっていて、まさに下北沢ブロイラーは下北沢の「ブロイラー」だったなと思っている。
黒田さんにはとても感謝している。
時に厳しく、というか、だいたいいつも厳しくて、2016年以降は街でばったり会うと「なんでお前が下北沢にいるんだ?早く下北沢から出ていけ!」とよく言われていた。
たまに優しい言葉をかけてくれる黒田さんではあるが、私が家庭の事情で2019年に台東区に引っ越した後は、下北沢で会ってもおおむね優しくて、その接し方はボクシング漫画「はじめの一歩」で主人公の幕の内一歩が引退試合を終えた後、一歩を家まで送り届けてくれた鴨川会長のようで、下北沢を離れてしまった私はもう、黒田さんにとって叱咤(激励)の対象ではなくなってしまったんだなぁと、少し寂しく思った。
と思っていたら2021年6月17日、何の前触れもなく突然Twitterのリプで黒田さんに叱られた。
なぜ叱られたのか、詳細は割愛するが、内容としては「今できる最良の一手を選択してくれ!」というメッセージだった。
久しぶりに(やや理不尽気味に)怒られてびっくりしたが、なんだか少し懐かしい気持ちになった。
人と人が出会うとき、そこにはその間を取り持つ「人」や「場」があったりする。
下北沢はそういう「縁」が沢山あっていい街だなと私は思う。
(⑦につづく)
続きを一気に読みたくなったらnoteもあります。